【ゼミブログ】古典

こんにちは!ざいぜんです。

 

今回も【ゼミブログ】を書いていこうと思います。

今回は、「教養」第2段【古典】です!

横山先生にお越しいただき、沢山の問をもとに考えを深めていきました。

 

まず初めに横山先生から問われた問は

古典は本当に必要なのか

…。どうなのでしょうか。この問を頂いたとき、私はイキナリ戸惑いました。

日本人として「必要だ」と言い切りたかったのですが、もし、古典がなくなったら私の今の生活が困るのかと聞かれたら、正直「困らない」と答えるだろうなぁと思ったからです。

でも、古典は全てが書かれていないからこそ想像の余地があり「考える」という面では、とても必要な題材ではないのかなと思いました。古典を読みながら「なんでこんなことしたんだろ」とか「このときどう思ったんだろ」などと考えてみたり。まさに「答えのない問」ですが、自分なりに考えることによって自分の思考が作られていくのではと思います。

つまり、「考える古典」は必要…?

 

続いての問はこちら。

私たちにとって古典とは

私にとっての古典…。うーん。

(めちゃくちゃ先入観ですが)私は「古典の登場人物は心のままに動いている」と感じています。あまり、現代ほどモノがあふれていない時代なので、純粋な人間の心理とか良い暮らし方などが知れるといったイメージです。

「(私も含めみんな隠してるけど)人間ってそう思うよなぁ」とか「そういう暮らし方憧れるなぁ」などと、高校生の私は考えていたような…(曖昧)

とはいっても、古典の登場人物が心のままに動きすぎて、少々私の理解が追い付かなときもあるのですが(普通、2人に求婚されて決めきれなくて自殺しようとしたりしますかね…?)。人間って心のままに動くとこんなことするんだな驚いたり、でも古典の登場人物は出来事を真正面から受け止めてて(すごく苦しそうだけど)ちょっと羨ましくも思えたり…する、かもです。

その他、みんなの意見として

・ストーリーが面白い!楽しい!

・日本のアイデンティティ

・現代との逆照射的存在。現代を振り返る、批判的に見る。

等が出ました。3つめについて私は、現代では薄れてきている大事なものが古典内にはあるなと感じることもありますが、受け継がれてきたものもあるようにも感じるので「逆」てほどでもないのでは…と思ってしまいました。

 

さて、次の問は!「徒然草吉田兼好)」の冒頭部分について。

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ

この部分で不思議に思うところは

…?(わからない…)しいて言うなら「あやしうこそものぐるほしけれ」かなと思いました。とりとめもないことを書いてるだけなのに、「異常なほど、狂ったような気持ち」になったりするのかな、と思ったんです…。何書いたんだろう。(授業では冒頭しか習わないので気になって調べてみたら、第三段に「恋を知らない男はダメ」って書いててちょっと笑いました)

この問には一応「答え?」があって、不思議に思ってほしかったところは「硯にむかひて」だったそうです。

なるほど!「硯にむかう」だけでなんとなく「書き手」と「机」と「硯(紙・筆)」をイメージしていましたが、「硯」以外は書かれていないし、普通だったら「机に向かう」って言いますよね。

(めっちゃ余談ですが、なんで敢えて「硯」にしたんだろうとも思いましたが、実は昔は「硯にむかう」が定番の表現で、現代では硯を使う場面が減ったから「机にむかう」に変化したということもありえるなと思いました。)

 

では、どうすれば上記の問を考えられるでしょうか。

私が思った答えは「当時の生活方式、作者の性格について詳しく調べる」でした。

絵巻物等から、当時は机を利用していなかった説もあるとのことだったので、まずどんな生活が主流だったのか調べる必要があるなと思いました。また、その上で作者自身がどんな生活スタイルを好んでいたのかなど、性格的な部分も調べることができれば作者がどんな状態で書いていたのかわかるのではないかと思いました。

因みに、その他こんな意見が出てきました。

・実際に「硯にむかう」を再現してみる

・同作者の作品のなかから似た表現を探す

横山先生曰く、2つ目が古典を研究するときの主なやり方らしく、今回は「異作者」の作品の中から似た表現を探してみました。

古典には、先に生まれた古典の世界観をマネする引用パターンが多いらしく、今回も「源氏物語(手習い)」にて似た表現が発見されました。出家した浮舟が、想いを説明することが苦手なために1人で鬱々と「硯に向かって」何かを「書く」シーンです。

このことから、「硯にむかう」ことは「何かを書く」ことであり、「書く」ことは「人に言えない悩み(心の内にある単純でないもの)を発散したり発見したりするもの」であると考えられます。

古典の「書く」に込められた想いは、現代とは少し違ったものなんだなと感じました。現代は「動作」のみの言葉であるのに対して、古典では「動作+感情」を指しているような…。もしや「硯にむかう」は古典の世界では価値語だったのでしょうか。「硯にむかう」からこれほど考えを広められるとは…。古典ってすごい。やっぱり必要。

 

最後に

古典が引用されているのは「古典→古典」だけでなく「現代→古典」もあるのだというお話がとても印象的でした。

なんと今をときめく米須玄氏さんの「Lemon」は高村幸太郎さんの「レモン哀歌」を引用しているそうです。たしかに歌詞からはとても通じるものを感じました。

・レモン

・光

愛する人の「死」

古典は今にも生きているんだなと感じた瞬間でした。昔と今を織り交ぜながら新しいものが生まれてくるってこんな感じなのでしょうか。歌もモノもサービスも通じるものがありそうです。昔から学ぶということは、やっぱり大切なことだと感じました。

 

(あまり上手くまとまっていないけど、)

以上!