【ゼミブログ】哲学

こんにちは!ざいぜんです。

 

今回も須長先生から頂いた2つの問をもとに、哲学対話を進めていきました。

まず1つ目の問は

 

1.われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着をもっていてもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?

 上記の問に対して、まず初めに

Q:自分が愛着を持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着をもっていてもらいたいと思ってしまうのか

という疑問が出てきました。

これに関しては、YESの意見とNOの意見が出ました。

 

NO:(自分が愛着を持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着をもつ必要はない

理由:

  • 個人的な愛着(ファンクラブ等)には共感を求めない。自分で留めておいてよい(承認欲求がない、発信欲求がない)

そのコミュニティが自分にとって好ましい状態であり、特に相手に愛着を伝え(アウトプットする)、何らかの返答をもらう必要がないのではないかと考えました。

また、愛着を伝える際、相手からの何らかの返答があると考えると、個人的な(伝わりずらい)愛着であればあるほど、共感にも反感にもなり得る返答に恐れを感じ「自分の中だけでとどめておいてよい」と感じることも考えられるなと思いました。

 

YES:自分が愛着を持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着をもっていてもらいたい

理由:

  • そのコミュニティへの愛着をアピールして愛のある自分をアピールしたいから

この場合「他人にも同じように愛着をもっていてもらいたい」のかどうかは、分かりませんが、そのコミュニティへの愛着を他人に発信するとともに、その人は「そのコミュニティを愛している(愛のある)自分」を他人に発信しているのではないかと考えました。

  • (相手が自分にとって重要な存在であるならば)価値観の違いによる衝突を起こしたくないから

これは、もし愛着を共有したい人が結婚相手など、自分にとって重要でかつ多くの時間を共有する存在であるならば、という視点から考えたものです。自分は「家族」というコミュニティをとても大切に思っているのに、結婚相手がそうでもなかったら、今後衝突が起こりかねません。長く密に過ごす間柄であるからこそ、愛着を自分の価値観として共有したいのではと考えました。

 

そして

そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?

 という問いに関しては、

  • 気持ち自体は持っていてもいいが気持ちの押し付けはするべきではない。
  • 相手がより重要な人物であれば共有もしてよい

という意見がでました。私たちは、自己満足な価値観の押し付けはよくないけれど、その人との将来性も考えた上での価値観のすり合わせなら行うべきなのではないか、と考えました。

 

そして次に2つ目の問について考えました。

2.怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

 これに対しては以下の意見が出ました。

  • 勉強のできるできないと、人間性の良し悪しを結び付けているから
上手く言えないのですが、「勉強できない(怠け者)」と「人間として」は「けど」でつながるのか?と思いました。「けど」によって関係のないものを結び付けている感じがします。またイメージですが「そうあるべき」という言葉には拘束力のようなものを感じ、その拘束は「そうあるのが難しいから」使われるのだという印象があります。私にはこの先生の言葉が「人間として尊敬するのは難しいけど尊敬しなさい」と言っているようにも感じるので問題であると考えました。(ひねくれすぎ…?)

 

  • ーーしなさい。のせいで、逆の選択肢を与えてしまっているから
これは、Aくんにとっては、先生が言うまでただのBくんだったかもしれないのに、「人間として尊敬すべきBくん」と言ってしまったがために、Aくんには無意識的に「自分には、Bくんを人間として尊敬しなくてもいい、という選択肢もあるのだ」と認識させてしまっているところに問題があると考えました。
 
 
そして最後に須長先生から
対話を行うときの注意点として「価値語」と「パレーシア」についてのお話をして頂きました。
 
価値語
価値語とは、単独な言葉(事実)だけではなく、批判性を含んだ言葉のことです。例えば、「差別」には「差別」だけでなく「してはならないこと、悪いこと」といった意味も含まれます。こうした言葉は、言葉とともに「その言葉について私たちはどうあるべき」といったメッセージもふくまれているので、議論の幅を狭める要因となるようです。そういえば私も「差別」についての議論中は物凄く言葉を選んでいたなと感じ、無意識に刷り込まれたメッセージの根強さを感じました。
 
パレーシア
パレーシアとは、包み隠さず話すこと、リスクをとって真理を話すことです。私は周りの目を気にして、分からないと言うことやありのままに話せないことがしばしばあります。「差別」について言葉を選んでいたのも、そういった理由であると思います。価値語や周りの目を気にせず本質的な議論を行うためには、パレーシアはとても必要な姿勢だなと感じました。
 
さいごに
改めて、哲学って本当に難しい。答えがないうえに「考え切れていないのでは」という腑におちない感じがとてももどかしいです。(分野がちがうからでしょうか、自分ってこんなに思考浅かったっけと感じてしまいました。定期的に枠から出ることは本当に大切。)
そして、答えがないにしても、「自分の答えはこれだ」と自信をもって言えるほどの自分自身の哲学がほしいなぁと感じました。
知ることや経験することに対して「自分はどう感じるのか」を後回しにせず、1つ1つ丁寧に向き合い続けなければと思います…。
 
以上!