記憶と忘却

数日前、iPad(中古)を買った。

 

通勤で電車に乗っている時間が長いので、iPhone電子書籍を読みながら時間を潰すことが多いのだけど、小さな画面の一点を長時間見つめていると頭が痛くなることに悩んでいた。

だから、iPad(中古)を買った。

決して人生初の“タブレット”がほしかったからではない。頭痛に悩むことなくコンテンツに触れる環境を整えるために買ったのだと、私は私を信じている。

 

iPadを買ったので、以前から入ろうと思っていたサブスク『SAMANSA』に早速課金した。月額370円で世界中のショート映画(1作品の上映時間は3分-29分以下)を観ることができる。

運営会社の代表 岩永さんの想いもとても素敵。

世の中では、毎年何千何万ものショート映画(一般的には40分以下の映画を指す)が制作されていると言われています。しかし、その中で金銭的なリターンを得られている作品はほとんどありません。どれだけ素晴らしい作品でも、どれだけショート映画制作が好きでも、金銭的に制作し続けることが難しいという現状があります。

クリエイターの創造性を尊重しつつ、ビジネスとしても成立させ、ユーザーの心に響き、一度観たら忘れられないような作品を届けていきたいです。

PRTIMES STORY より

 

どれも素敵な作品なのだけど、なかでも、引っ掛かるところがあるが何かわからず、でも気になって何度も観てしまう、という作品がある。

 

『記憶と忘却』

この作品は、“記憶の価値は以前と同じなのか”という問いから生み出されている。

インターネットによって膨大な量の情報が外部に記憶される現代。それらは、焼失することもなく、プライスレスで、容易にアクセスできる。はるか昔は、石や葉、少し前までは紙がつかわれていたが、恐らく現代までに膨大な量の情報が消失している。そう考えると、インターネットは本当に素晴らしい産物だ。

ただ、技術の発達にともない、いつ・どこで・どんなものも何かしらの形で残せるようになると、“残したくない記憶”が生まれるようになった。不適切な発言、SNSの誤投稿、炎上……、人類史で初めて“忘却”が価値を帯び始めた。

 

外部に記憶できることが当たり前になったいま、もし忘却できるものが出てきたら熱烈に欲する人はいるんじゃないかな。需要は満ちて溢れ出してはいけなくて、でも溢れだすまでは求め続けるんだろうな、“ちょうどいい”は結果論だしなんだかとても人間っぽいなと思う。

 

私が引っ掛かっている気がするところは、作品の最後の言葉。

「かつて外部に出ることのなかった秘めた思い出と同じ価値があるのでしょうか?」

「考えてみると昔は“忘れられない瞬間”を作るために努力していました。」

「それがささいな瞬間でも」

 

何が引っ掛かっているのかわからないまま書いてしまうけど、
外部に記憶できることが当たり前だと、いまにこだわらない、というのはあるような気がした。いまへの集中力の薄れというか(いい悪いではなく、特徴として)。

外部に記憶できる安心感があると、内部に記憶が残りにくいんじゃないか。何か思い出すとなると私はまず写真フォルダを開く。父が昔のとんでも話をすらすら話す姿を見て、私とは違う(いまなお語れる強烈な思い出を作れる)時代の人だと思っていたけど、実は私にも大なり小なりとんでも話はあって、それを内部に記憶できていないだけだったとか……?

 

恐ろしい。

作品を観て“私が引っ掛かったところ”がこれだったのかはわからないが、
もうちょっといまにこだわろうと思った。

 

思いっきりインターネットの恩恵を受けているブログに書くのはなんだけど。