もものかんづめを読み返して

1日1ブログを始めて8日目。
8日間続けてわかったのは、締めの言葉が難しいということ。

以前までブログは書きたい衝動に駆られたとき(=何かしら伝えたいことがあったとき)に書いていたので、あまり締めの言葉に悩むことはなかった。ただ最近は1日1ブログ(執筆スピードの向上)を目的に書いているので、かなり悩んでしまう。

そう思うと、エッセイを書いている人ってすごいなぁ。私の書くブログはエッセイではない(恐れ多くて言えない)が、何かというと多少は近い......ような気がする。

作家さんたちはエッセイをどんな風に書いてたっけ、とふと思った。気になってきたので、私の大好きなさくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」を読み返してみることにした。


結論を書いてしまうが、読み返して率直に思ったのは
必ずしも伝えたいことがあるわけではなさそう、ということ。

※あくまでも「もものかんづめ」を読んだ私の解釈。解釈が違う可能性もあるし、著書によって異なる部分なので“エッセイが”ではない。

もものかんづめ」では伝えたいことが山のようにひとつあるというより、小山が何個かあるイメージ。主となるエピソードの前に前座的に小さなエピソードを書いているといった構成のものもあった。
前座も本編?も面白くて、たまに前座が本編を食ってしまっているものもある気はするけど...

また各エピソードを読んでいると以下の共通点があるような気がした。

  • 共感できる
  • 比喩が秀逸
  • 最後に1文のオチ

エピソード「極楽通い」を例に詳しく書いてみる。

共感できる
とにかく絶妙に共感できるものが多い。一言で「こういう感情」とは言い表せないけれど、状況を交えつつ的確に「ある」を伝えてくれる。例えばこんな感じ。

(マッサージ師さんの)「どこがお疲れですか」という質問に対し、「ええと、首と肩と背中と腰と足です」と言えばヨカッタ、という私の後悔をよそに老婆は首スジを揉み始めていた。

痛けりゃ痛いと言えば良いものを、痛い方が効くのかも、という錯覚が私に我慢をさせてしまう。

比喩が秀逸
さくらももこさんは言葉と言葉(または状況)をつなげるの発想が本当に素晴らしいと思う。普段は連想し得ないが言われてみれば確かに似ていて、むしろそう表現するのがピシャリとくるようなものたちを的確に繋げているような気がする。

友人は、吸角をを行ったとたん背中の痛みが消え、爽やかな顔で首吊り台(著書での呼び方。マッサージ台の一種)へと登って行った。ところが、わずか傾斜二十度で苦痛を訴え、ツボ刺激ベッドに乗り換える変わり身の速さと言ったら、まるでこの世の栄枯盛衰の如しである。

最後に1文のオチ
もものかんづめでは大体最後に1行、チャンチャンと音の鳴りそうなオチ?が1行入っている。ちょっと哀愁が漂っているのも特徴的だと思う。流石にこのエピソードで伝えたいことがこれだったわけではないとは思うのだが……。

私は、うかつにも鍼灸院に保険証を忘れてきてしまい、また聞かなくてはならない。


私はエッセイをよく読むが、読み手としてではなく書き手として読んだのは初めてかもしれない。書き手として読むとあまり純粋に楽しめないので、書き手として読むなら2巡目以降が良さそうだ。
ただ、最近自分がエッセイに近しい何かを、特に強く伝えたいこともないまま書いているからこそ、読む視点を変えられたり生み出すことの難しさを少しは感じられた気がする。
もものかんづめを読み返して、あまり伝えたいことにこだわらずに書く日があっても良いのかなと思った。