哲学

こんにちは!ざいぜんです。

 

なんと、今回森田ゼミで待ちに待った「教養」が始まりました!歓喜

ゼミ選考時からずっと楽しみにしていたので、とても嬉しいです。

そしてテーマは「哲学」!どんな見方が得られるのだろう、ととてもワクワクしていました。

 

初めにグループに分かれ音読をしました。しかし、ただ音読するのではなく、読む際に意識するポイントとして、以下4つを感じた部分をマークしていきました。

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め.メウロコ:なるほどそうだったのか!
す.スゴドウ:凄く同意できる!
な.ナツイカ:どうしてそう言えるんだろう?納得いかない!
は.ハゲパツ:その主張は絶対に認めん!

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一通り読んだ私の率直な感想は…

何を言っているのかわからない!

え、これ本当に日本語?読めるのに(音読できるのに)読めない(理解できない)!

…。グループワーク時に、みんなで必死に考えても「3歩歩いて2歩下がる」の繰り返しでした(あの曲が聞こえてきそう)。

哲学ってこんな難しいのか、と痛感しつつ、みんなであーでもないこーでもないと話し合うのは、めちゃくちゃ楽しかったです!全体的に見たらほんの少しの進捗でしたが、自分1人では絶対に到達できなかった「(私たちなりの)解釈」を見出すことができました。

 

【A】

私たちは最初に音読した後、よくわかんないね、となったので最初から読み直し「ん?」と思ったところを都度都度話し合っていくという進め方にしました。4つのポイントは一旦無視して理解することに注力しました。

まず初めに、「ん?」となったポイントはこちら

外形的に他人に危害を加える行為のうち、動機によって正しい行為と誤った行為とを区別することは有効ではないであろう。理念的には分けられるであろうが、現実的には外形的に危害を加える行為の内的同期を抉り出すことは虚しいであろう。ありとあらゆる動機によって、われわれは他人に危害を加える存在者なのだ。…

これは、

ちはるっちの「きりがないからだよね」という言葉に納得感がありました。動機は人によって様々だし、その動機の良し悪しを判断するのもまた人によって様々であるので、行為を区別する際には有効であないのだろうな、と思いました。

でも「理念(純粋に理性によってたてられる超経験的な最高の理想的概念)的に分けられる」ってどういうことなのか…。話し合いのなかでは理解できていたつもりがいざ振り返ると分からなくなっていました。

 

次に「ん?」となったポイントはこちら!

 

子供は攻撃することが禁じられている権威(例えば父親)を「同一化」を経て自己の中に取り入れることによって、困難な状況から脱する。そして、ここに「罪責感」が生まれるのである。

これは、

子供が自分も父親(攻撃できない、尊敬?)のようにあらねば(同一化)と思うことによって、例えば子供がお金がない(困難な状況)でも、「お金を盗む」という行為を踏みとどまる(脱する)ことができる。そして、踏みとどまるまでの過程で「盗み」に対して「良くないよな…」(罪責感)と感じた。

ってことなのかなと解釈しました。これはとても納得感があります。「良くない」って感じた時点で「良くないことをする自分」とその対称の「理想の自分」が無意識でもあるわけで、その理想の自分を作ったのは「周りの攻撃できない(尊敬している)人」になるのかなと思います。意識下でいくと、私も困ったことが起きたときに「〇さんだったらどうするかな」などと考えたりするので、これも「同一化→自己に取り入れ」になるのではと思います。(罪責感については状況によりますが…)

そして最後に

誤解を恐れずに言えば、悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。

これは結局、誰も同意できず、私たちなりの解釈も見出すことができなかったので、(著者は)結構大きい誤解生んでしまってるやんと思いました。

悪意を全て排除すべきではない、というところまでは理解できたのに、「悪意のうちにこそ」ってどういうことだ、とか、著者は「豊かさ」をどうとらえているのか、とかもやもや問がたったまま終わってしまいました。

 

そしてここからは個人の宿題

グループワークの際にはできませんでしたが、ここからは私が感じた、め、す、は、な、を記録していこうと思います。

前から順に書いていこうと思ったのですが、【B】【C】【Ⅾ】を読む中で、1つ問が立ち、その視点から行ったり来たりを繰り返しながら、腑に落ちた部分とそうではなかった部分があるので、問を中心にバラバラに書いていきます。

私が疑問に思った点はこちら

…こうした対立のもとにおいて、我々はいかに行為すべきであろうか。1つの回答らしきものがある。それは、「すべての人は(たとえ他人に不快を感じているとしても)あたかも不快を感じていないかのように振舞うべきである」という規則である。…これでいいことはない。…他人に不快に感じられたくさえないのであるから。【B】

私はここで「不快であっても不快でないように振舞え」が回答にならないのはなぜだろう、と感じました。なぜかというと、私は以下の部分から、

 あらゆる悪意とその発露が根絶された理想社会を掲げて現状を嘆くのではなく、自他の心に住まう悪意と戦い続けること、その暴走を許さずそれをしっかり制御すること、…【A】

 「制御」は外側にに出さないこと、つまり「不快でないように振舞う」ということだと解釈していたからです。

また、「…これでいいことはない。…他人に不快に感じられたくさえないのであるから。」の部分も疑問でした。不快などの感情を統制することはできない、するべきではないことを以下の部分から腑に落としていたからです。

…家族に関しては、家族を心から愛しているとか…という露骨な愛情表現が大手を振るっているだれも眉を顰めず、問題にもしない。【C】

家族がいなくてもきっと幸せな人はいるだろうし、この世の中の暗黙の価値観のせいで、家族がいない人が「いないこと」に対して「自分は不幸せだ」と思いこまされている可能性もあるなと感じ、そう統制されることこそが「不幸せ」なのではとも思いました。

そしてこれには、少し恐ろしさを感じました。「円満な家族」は「幸せ」の象徴、みたいなものが刷り込まれているのかなと感じたからです。確かに私は、家族がいない人・家族を愛せない人に対しては瞬間的に「かわいそう」とか「不幸せ」と感じてしまいます。あ、でもこれも統制すべきでないものなのでしょうか…(混乱)

また、

…Aは劣等なクラス仲間を外形的には軽蔑しないかもしれないが、心のうちで軽蔑し続けるであろう【D】

この部分についても、先生がAを褒めた時点で、Aは自分を誇るだろうし、差別までいくかもしれません。いくら先生が「クラス仲間を軽蔑するな」と言っても、そんな統制は無理だと思いました。

 

上記を踏まえて、結局自分の内にある感情とか意識は統制することも排除することもできないから、そのまま外に出さないようにすべき、ってことなんじゃないかなと思ったのです。これは「不快であっても不快でないように振舞え」とは違うのでしょうか。表面的には同じだけど本質的には違うってことなのでしょうか。

 

あぁぁ、わからない。

 

答えでてないけどこれが私の限界な気がしてきました。一旦寝かせます(ごめんなさい)。

ふー。哲学って本当に難しいなと思いました。大変だ…。

でも、冒頭でも書きましたが本当にみんなで考えるのは楽しかったです!

次回もとても楽しみ!!!

 

 以上!