「世間様」という日本の神様

こんにちは!ざいぜんです。

 

最近読んだ本と今日の私がリンクしましてゾっとしたので、書き残しておきます。

 

読んだ本は「孤独と不安のレッスン」。
母から熱烈に「読め」とのお達しが来ていたので、読んでみたという経緯です。

 

どんな本なのかというと。「本当に1人は寂しい(みじめ)なのか」という問いにひたすら答え続けている本です。その中の考察にちょっと面白いものがありました。

一神教というキリスト教を信じた人たちは、(何らか判断するとき)みんな神に対して個人的に1人で問いかける。 

 でも、日本は神を持たない。では日本人はどうやって自分の行動を判断をするのでしょうか。

僕は、日本にも似ているなぁと思うものがあります。それは『世間』です。世間様、世間体、なんて呼ばれたりします。日本では、神様をいろいろと変えても神様は怒りませんが、世間に逆らったり、世間を騒がせたり、世間から後ろ指をさされたりすると、とても生きづらくなります。

 …『世間様』!!!(確かに言う…!!!)

日本人には自分の中に問いかける神的な存在がなく、それを外の世間にゆだねた結果「1人は寂しい(みじめ)」って思うのはちょっと納得です。「寂しい」とまではいかなくても、共同体意識が強いんだろうなぁという実感は、私にもいまだにあります。

例えばアルバム委員会の編集会議のとき。私は特にやることがないので、本を読んだりしてるのですが(働け?)ふと顔を上げると「あ、私今ぼっちだ」と気づき。さらに空間を俯瞰して認識してしまうと若干心がヒリヒリします。え、これ伝わるんかな。

基本1人の方が楽だなぁと思っているのですが、上の気持ちは「共同体意識の強さ」の表れではないでしょうか。私も結局そう思ってんだな、と感じた直近の出来事でした。

 

さて。冒頭の話に戻すと、「最近読んだ本と今日の私がリンクしまして」ということだったと思うので。次に「今日の私」とは、について書いていきます。(アルバム委員会の話は、ただの補足です)

 

「今日の私」というのは「オリンピックの開会式を見ていた私」です。もっと言うと「片手にTwitterを開いていた私」です。

今日の20時、恐らく一生に一度であろう「自国開催のオリンピック開会式」を見ていました。結構すごい時期に生きてるなぁと思います。でも正直、オリンピックはそもそも開催にあたって賛否両論あったので、どういう気持ちで見ればいいのかわかりませんでした。プロジェクションマッピング綺麗だなぁ、くらいは思っていました。

かなり複雑な気持ちで見ていたところに、各国選手の入場が始まりました。本当に印象的だったのですが、皆さんがすごく笑顔で入場してきていて。前の「選手たちの苦悩」を表現した演出も相まって、うわぁぁぁぁ良かったなぁという気持ちになりました。

アスリートの人って、想像だけど、大会が生きる意味みたいになってるんじゃないかなと思います。もしそうだとすると極端だけど、大会がなくなると「なんで生きてるんだっけ」ってなりそうな気もして。そういう人たちにとっての「大会」ってやっぱり私が捉えてるものとは全く違うものなのではと思うのです。

そんなことを勝手に想像していると、笑顔で入場してきた選手たちを見て心が上向きになったし、オリンピックは良いものになるのではないのだろうかという希望も感じました。

 

のですが。「Twitterを片手に開いていた私」は、ちらっと『世間様』のご意見をのぞき見してしまったんですね。そしたら、結構「否」が多かったわけです。

まじか。って感じでした。そして、そうか、そうなんや。と思って、無意識に「否」側に回ろうとしている自分がいました。でも途中で本の言葉を思い出して「え、私今どちらかというと『賛』やったやん」と思い、めちゃくちゃゾっとしました。これ、怖くないですか。私は恐怖でした。

自分の意見が分からなくなる、っていう恐怖だと思います。まさに『世間様』を気にして自分の意見を捻じ曲げようとしていたというか。しかも無意識と言うのがまた…。自分の意見とか思考を確立できていないとこうなるのか、と思いました。

 

こんな感じでですね、最近読んだ本と今日の私がリンクしましてゾっとしたんですね。日本には決まった神様はいないけど、その代わりは本当に『世間様』かもしれないなと思いました。少なくとも私にとっては、その説やや強めな感じがします。

 

Twitterは私にはまだ早いかもしれない...、もうちょっと自分を確立してからじゃないと、思考なしに『世間様』の意見が自分の意見だと思ってしまいそう。と、感じた今日この頃でした。

 

私の生息地はやっぱりインスタかなぁ~(インスタ大好きマン)

 

 

以上!