バンクシー展 天才か反逆者か

こんにちは!ざいぜんです。

 

先日『バンクシー展 天才か反逆者か』に行ってきました。

 

7/2~10/31開催なので(まだ行っていない人はぜひ)、天神周辺へ行くたびにポスターを横目で見ていました。心がそわそわするのを感じつつ、「行こう」と積極的に思えない自分がいたために、結局通り過ぎることを何回繰り返したことか…

 

なぜ、そんなにためらっていたのかというと

 

「私では何も感じられないかも」という、なんともしょーもない気持ちのせいです。以前、「何でもいいから引き出しを増やさなきゃ!」という焦りで『宮崎駿展』に行ったことがありました。何か持って帰らなきゃ、という気持ちを頭の片隅に置いたまま、作品を次々と見ていったのですが、焦ったまま出口に着いて自分にガッカリしただけでした。笑

 

もはや作品を見ていなかったと思います。何か結び付けられるものはないか、過去ないしは未来を見ていた感じ。結局、「素晴らしいものを見て感動できる自分でありたかったけど、私は違うらしい」という、しょーもない気持ちを自分に植え付けて帰りました。

 

というわけで、芸術にふれるのはちょっと気が引けるのです。「私では何も感じられないかも」と実感するのが嫌、なのです。

 

しかし!私は、先日『バンクシー展 天才か反逆者か』に行ってきました。

 

なぜ行ったのかというと、友達が「もったいなくない?」と言っていたからです。その友達は「絵画の知識はないし、ミーハー心で行った」と言っていて、なんか妙にその言葉が刺さってしまったのです。堂々としてる友達がカッコよかったし、たしかにもったいない…と思ったので私も行くことにしました。ごりごりのミーハー心と、そわそわ心を持って!

 

 

展示場に着いたのは、午後18:30。20:00閉館なのでかなりギリギリでした(が、おかげで人が少なく大正解だったと思っています)。入った瞬間、真っ暗な部屋にバンクシーの絵が次々と映し出されていて、すごく不気味でした。かすかに恐怖を感じつつ、でも世界観に引き込まれていく感じがなんとも不思議で。お化け屋敷とかでも恐怖を感じると思うのですが、ちょっと違うんですよね。恐怖を感じつつも、バンクシーの作品からは「敵ではない感」が伝わるので、好奇心を持って足を進めることができたのかなぁ。

 

バンクシー展には音声ガイドがあり、作品の解説をスマホから聞くことができました。最初は聞いていたのですが、正解を聞いているような気がしてきて聞くのをやめました。単純に、長いなと感じただけかも笑。でも聞くのをやめて良かったと思っています。聞くのをやめてからは「この作品は何を表しているんだろう」と自分の中の疑問や感情に耳を傾けやすくなりました。

 

 

写真OKだったので、見ていった中で心に残った作品を撮りました。

■ブルドック

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何を表しているんだろう。全く分かりません。ブルドックの頭にトイプードルの体、「顔(言葉)だけでは、人は分からないよ」ってことなのか。もしくはトイプードルではなく、細い体を強調したもので、人々の生活の実情を表しているのか。(「意味はない」と言っている人もいます)

 

意味は分からなかったけど、両極端だなぁ、と思いました。そこで「なるほど」と思ったのです。バンクシーの作品のほとんどは、1枚の絵の中に両極端なものたちが描かれています。だからその違和感が不気味で怖くて、でも意味を持っているように見えて知りたくなるのか、と納得しました。(数々の考察の中で既にそう書いているものが多々あるかもしれないけど、自力で気づいたので書かせてほしい…)ちょっと心に残ったので、パシャリ。

 

■シンデレラとカボチャの馬車

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かなり衝撃的な作品だと思いました。と同時に、日本っぽいなとも。この作品はダイアナ妃の事故を表したものらしいですが、日本でも1歩手前の事例は多々あると思います。当事者である「被害者」「加害者」は互いに和解しているにも関わらず、なぜか外野が許さないみたいな。その波をさらに大きくするために、執拗に記事に取り上げたりもしますよね。

 

純粋になぜそんなことをするのか分からないですし、表現の自由と言われたらそうなのかなと思ったりもします。が、ある本に

いじめといじりの境界線は、交番や親の前で同じことができるかどうか。

と書いていたので、一旦みんな交番か親の前でも同じことができるのか確認してみたらどうかなと思っています。ということで、パシャリ。

 

 

そんなことをくるくる感じながら進んでいると、出口に着きました。バンクシー展、面白かったです。そして最後に、こんな投票を見つけました。

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UX的にいうと、利用後(エピソード的UX)?こういう方法もあるのか、と思ったのでパシャリ。最後に来訪者にアクションを起こさせることで、来訪者は思い入れも強くなりますし、記憶に残りシェアしたくなるのではと思います。シェアしやすくもなりますよね、「天才にした?反逆者にした?」とか。今のところ天才派が多いようです。

 

 

帰りながら、ミーハー心で行ってよかったなと思いました。友達に感謝。バンクシーの作品は壁に描かれていることが多いからか、その辺に描かれている落書きが妙に意味深に見えるという謎現象が起こるほどに、世界観に浸った時間だったと思います。

 

宮崎駿展のときのような「作品を見ていない状態」にはならなかったし、むしろ宮崎駿展があったからこそそうならなかったのかもとも思っています。当時は自分の中で意味を作れず、芸術への躊躇を植え付けただけの経験になっていましたが、なるべき時が来て意味になった感じだなと思いました。

 

そう考えると、結構経験しているその瞬間は「意味を感じない」「意味にできない」ことがよくあるのかもしれません。無理に意味を見出そうとして経験を存分に感じられなかったり、すぐに投げ出してしまったり、経験する前から躊躇してしまうのは「もったいない」と思いました。(厳密に言うと、何回か聞いたことはあったけど初めて腑に落ちた感じ)

 

 

一旦心のそわそわに従い、記憶に残しておいて、来るべきときに引っ張り出して「意味にする」くらいの心持ちがちょうどいいかも。

 

 

 

以上!