”ダメだった”と分かることは、良いことなんじゃないでしょうか。

2021年の3月、私はとても思い悩んでいた。

 

(個人的には大きい)大きい決断をするかしないかで死ぬほど悩んでいたし、異常なほど思いつめていた。不安もあってか決断するまでに色んな人に話を聞いた。ただ、人には人の考え方があって、どれも正解で、聞けば聞くほどより一層悩みが深くなるだけだった。

 

話を聞いた人の1人に、福大人文学部のO准教授がいる。なぜO准教授に話を聞いたのかというと、そのときたまたまO准教授の授業を取っていて「考え方が好きだな」と思ったからだ。本当にただそれだけの理由で、私はO准教授にメールを送り、オフィスアワーの時間に研究室にお邪魔した。

 

恐らくO准教授は少し驚いたのではないだろうか。他学部の学生がいきなり授業とは全く関係のないとてつもなく個人的な相談を持ち掛けてきたのだから。ただそのときの私は、そんなことすら想像が出来ないくらい思い詰めていて、とにかく必死だった。

 

O准教授は、授業のときに感じたようにやっぱりとてもいい方だった。私の話を「うんうん」と聞いてくれたし、何かの参考になればと自身の経験も話してくれた。あと、話を受け止めてもらえたことにほっとしたのか、訳も分からず大号泣をしてしまった私にティッシュをくれた。

 

そんなO准教授からの言葉ですごく心に残っているものがある。

やってみて、”ダメだった”と分かることは、悪いことじゃないですよね。寧ろ、良いことなんじゃないでしょうか。

私が悩んでいた決断は、どっちにしろ正解があるわけではなかった。ただお金も時間もかかるので、最後に「ダメだった」「無駄だった」と思ってしまったらどうしよう……という不安がいつまでもぬぐえなかったのだ。

 

しかし、O准教授の言葉のお陰で、「もし“ダメだった”と思っても、その発見は私の財産になるかもしれない」と思うことができた。そう思うと、ずっと重くのしかかっていた不安が少し軽くなったような気がした。

 

結局私は、”やってみる”方を選んで今に至る。やってみてすごく良かったと思っているし、やってみなかった方を考えるのが怖いと思うほどの沢山の経験を得た。

 

 

そして今期、私はまたO准教授の授業を取っていた。特に何事もなく15回の授業を受けた。ただ、最後の授業が終わった後にO准教授が私の方に来て「どうでしたか?」と声をかけてくれた。私はやってみて良かった旨を伝え、経験したことを少し話した。するとO准教授は「あぁ、それは良かったね」と言ってくれた。ちょっと泣きそうになってしまった。

 

これからもO准教授からもらった言葉はたびたび思い出すと思う。何か悩むことがあるときに背中を押してくれる言葉だ。大事に心の中に置いておこうと思った。