渋谷の街を飲む

「様々な経験で培った感性が文章に活きる」

 

編集部の先輩が3ヶ月くらい前に言っていた言葉だ。
感性は培えるらしいという救いと培えるイメージがわかない諦念。妙な気持ちで聞いていた気がする。

私は冷め冷め現実やろうだし、たとえ感性を培いに行ってもいつもの視点でしか捉えられないんじゃないの。この二十数年間、私は私の視点で生きてきて、そこにどうやって感性をねじ込むんだ。全部私の視点を通してしか捉えられないのに?

考えるほど「感性を培う」がわからなくなる。

とはいえ文章は磨きたい。とにもかくにも行ってみるしかなかった。

 

このあいだ私が行ったのは「TOKYO GAMES」。写真家・松岡一哲さんによる企画展だ。

www.shibuya-scramble-square.com

statementの言葉に惹かれてチケットを買った。

 

 

みんなが、そこに向かっていくことが、この街をかがやかせているのだと思う。

なんで東京に来たの?って上手く答えて来れなかったけど、東京に向かう人が、向かっている姿がかっこよく見えたのかもしれない。だからたぶん、この答えは東京にはなかったんだと思う。私はもう来てしまったから。

 

企画展は飾らない渋谷を殴り描きしたみたいだった。その辺に転がってそうな日常とか、なんで撮った?と思わずにはいられない二足の靴とか。粗くて強いエネルギーが圧縮されているような気がした。

最近私は一眼レフを買ったので、せっかくならとシャッターをパシャパシャ切った。写真をカメラで撮る。なんか変だな、と思った。

一枚の写真で足を止めた。

 

 

もっと近づいて撮ってみようとズームリングを回す。ファインダー越しに写真を見る。

 

 

外の景色が反射して、渋谷の街を飲んでいるかのようだった。

これは「向かって行った」人で、なにかを「掴み取ろうとする」眼なんだと思った。

 

「(写真家の)意図がわかんないね」と話す声が聞こえる。うん、私にもさっぱりわからない。ただ、言葉にならない妙な「納得」を感じながら出口を通った。

帰り道、なんで私は納得したんだろうと考えた。そもそも何に納得したのかもわからない。確かに「納得」だった、という感覚だけを持って帰ってきてしまった。

 

もしかすると「感性を培う」ってこういうことなのかもしれない。

私はファインダー越しの写真を見て言葉にはできないが衝撃を受けた。何に対してかはわからないが納得した。新しい感覚で心が動いたような気がした。

なんだかわからないけど心が動いて、やがて言葉で表せるようになって、自分のなかへ落とし込まれていく。感性はこうやって培われていくんじゃないだろうか。

私の「納得」がいつ言葉にできるのかはわからないが、まずは「感じる」ことが大切だったんだと思う。考えていたら、いつか私に培われてくれるんだと思う。

 

溢れ出す渋谷の街をむさぼり飲む。何かを掴み取ろうと、眼だけは一点を鷲掴む。

 

うーん、何に納得したんだ。まぁいつか言葉にできるかもしれない。